可能世界意味論に対する一批判    東京都立大学理学部  竹内 泉 ( Takeuti Izumi )  クリプキらの可能世界の概念には形而上学的であるという 批判がある。本稿では可能世界の概念を排除してどれだけ様 相論理の意味論が展開できるかを観る。 ● 厳密含意と実質含意  厳密含意と実質含意との区別は永い間議論されてきた。  例えば運動会の朝に雨に気付いた子供は、 (1)「晴れていれば運動会だったのに。」 と言うかも知れない。この「れば」を実質含意と解釈すれば、 この含意命題は雨が降っていれば必ず真になる。[註1]し かしこの子は雨の日に毎日この様なことを言ったりはしない だろう。この様な例が、実質含意とは異なる厳密含意を提唱 することの論拠とされる。  様相論理では、厳密含意を「必然的に含意が成り立つ。」 と見做す。実質含意は『〜…v…』のことであり、厳密含意 は『 □(〜…v…) 』のことである、と解釈される。[註2] ● 含意と普遍量化  論理学を学んで教わる含意の意味は「先件が成り立たない か、または後件が成り立つ。」という、いわゆる実質含意で あるが、これに違和感を覚える人は多い。例えば『(p→q) v(q→p)』は恒真であると教わっても、 (2)「晴れならば休日であるか、休日ならば晴れであるか、    のどちらかである。」 という言明を想い浮かべて奇しいと思う。しかしだからと云 って直観主義論理やその他の弱い論理を持ち出すことは当た らない。ここでの問題は言語に於いて明示されていない普遍 量化を忘れていることにある。文例(2)の言明型式を正し く述語論理で書けば    『 (x)( 日(x)→晴(x)→休(x) ) v (x)( 日(x)→休(x)→晴(x) ) 』 となり、確かにこれは恒真ではない。  含意に対するよく云われる違和感は、多く、このような 「ならば」と含意との混乱にある。「ならば」の意味は、常 に『→』なのではなく、屡々『 (x)( X(x)→…→…) 』とな る。  量化には、何でも代入できる、という意味の他に、周囲の 文脈から情報を遮蔽する、という機能がある。例えば二人で とある温泉に旅行したとしよう。夕方に新聞を求め、次の様 な会話があったとする。 (3−1)「あれ、夕刊が無いね。」 (3−2)「田舎には夕刊が無いんだよ。」  前者は今ここに夕刊が無いことを言っているのにたいし、 後者は一般に地方では、という普遍量化した形で主張してい る。暗黙の量化によって、文脈が場所として用意している情 報《ここ》を遮蔽したのである。[註3] ● 可能世界の理論  可能世界解釈では、厳密含意もまた暗黙の量化によって説 明される。可能世界解釈では、述語には皆、「世界wでは」 という暗黙の補語があり、普通には《この世界》が代入され ている。必然性の記号□は『 (w)( W(w)→… ) 』と解釈さ れる。厳密含意とは、「ならば」によって世界を表す変数が 暗黙裡に量化されて『 (w)( W(w) →…→… ) 』となったも の、ということである。『 W( ) 』は、S5論理に対する解 釈では「…はある可能世界である。」という意味だが、S4 論理に対する解釈では「…はこの世界から到達可能なある可 能世界である。」という意味になる。  先の例文(1)では、子供は今日の自分の学校での話をし ているのだから、時間も場所も量化されていない。ここでは 世界が量化されている。但し「全ての可能世界で」とするの は妥当ではない。運動会の予定日がその日ではないような可 能世界もあることだろう。「昨日までの状況が全て同じであ るような可能世界では」という暗黙の仮定がここにはある。 (虫のいい仮定である。) ● 可能世界と極大無矛盾集合  可能世界解釈では、必然性の概念に「どんな可能世界でも 成り立つ。」という意味を与えた。可能世界は論理式の極大 無矛盾集合によって表現される。[註4]可能世界が現実世 界だけしかないのであれば必然性は無駄な概念である。可能 世界を云う時には当然に他の世界にも言及していなければな らない。  しかし果たして、文例(1)を言った子供は昨日までの状 況が同じであるような様々な極大無矛盾集合に言及している のであろうか。単に、昨日までの状況が同じである、という 暗黙の仮定に、今日が晴れるという仮定を追加したに過ぎな い。反実状況を考える際に、それをわざわざ極大無矛盾にま で膨らませるのは行き過ぎである。クリプキも、実際上は部 分的な状況だけを想定すると言っているが、そうであるなら ば理論上も極大無矛盾集合は必要ない。[註5]  様相の解釈に可能世界が重用されるのは、単に技術的な取 り扱いが容易であったからに過ぎない。同様に技術的に可能 な別の解釈があるならば、様相論理にとって可能世界解釈は 意味論などではなく、単なる技術上の方便ということになる だろう。以下、本稿では、可能世界のような形而上学的な存 在を言わずとも様相が解釈し得ることを示そう。 ● 情報の遮蔽  必然性を考える為に、再び含意に伴う暗黙の量化を考えよ う。  文例(3−1)では場所を表す変数の値が《ここ》である が、(3−2)では場所の変数が量化されている為に、変数 の値は《ここ》ではない。これが量化による遮蔽であった。  それと同様、文例(1)も、「今日は雨だ」という状況を 遮蔽し、昨日までの状況と「今日晴れたら」という仮定とに よって語っている。だから、雨の日にはいつも妥当、とはな らないのである。  暗黙の変数の値にせよ、状況にせよ、情報であることには 違いない。「ならば」の暗黙の機能は、変数の量化ではなく、 情報の遮蔽であると考えられる。 ● 部分状況による様相の解釈  可能世界を持ち出すことなく、状況の遮蔽だけで様相論理 の解釈を試みる。これを仮に部分状況解釈と名付ける。これ は古典論理によって必然性を解釈するものであり、古典論理 自体に対する解釈には立ち入らない。  論理式の構文は述語論理に必然性の様相記号□を加えたも のとする。論理演算子は否定・連言・普遍量化・必然性に限 る。こうしても表現力は弱くならない。これに対し、様相記 号を含まない論理式を古典論理の論理式と呼ぶ。古典論理の 論理式が否定・連言・普遍量化に関する推論で証明可能な場 合、古典論理で証明可能と呼ぶ。古典論理の論理式が無矛盾 であるとは、古典論理で矛盾が証明できないことを云う。  解釈は状況によって為される。透過状況は、古典論理の論 理式の列であって、無矛盾であるものである。不透過状況も また、古典論理の論理式の列であって、無矛盾であるもので ある。どちらも、空列であってもよい。状況とは、透過状況 と不透過状況の組であって、全体として無矛盾であるもので ある。  『 c1, … , ci ; d1, … , dj |= p 』と書いて、「状況 〈 c1, … , ci ; d1, … , dj 〉の許で p は真と解釈され る」と読む。この時、〈 c1, … , ci 〉は透過状況であり、 〈 d1, … , dj 〉は不透過状況であり、 p は論理式である。 i や j は0でもよい。則ち、『 ; 』の前または後が空列で あってもよい。『 ; 』の前後が共に空列である場合には、 「 p は恒真である。」と読む。    『 c1, … , ci ; d1, … ,dj |= p 』 の意味は p の構成に沿って定義される。以下に、C によっ て透過文脈を表し、D によって不透過文脈を表す。 p が原子論理式ならば、『 C ; D |= p 』とは、  古典論理で『 C ; D |- p 』が証明可能ということである。 『 C ; D |= p & q 』とは、  『 C ; D |= p 』かつ『 C ; D |= q 』ということである。 『 C ; D |= (x) p(x) 』とは、  状況〈 C ; D 〉に現れないような z に変数名の置き換え  をして、『 C ; D |= p(z) 』ということである。 『 C ; D |= 〜p 』とは、  C' が C を含み、D' が D を含み、かつ無矛盾であるよう  な任意の状況〈 C'; D'〉に於いて、『 C' ; D' |= p 』  とはならないことである。 『 C ; D |= □p 』とは、  C を含み、D と無矛盾であるような任意の透過状況 C'に  於いて、『 C' ; |= p 』となることである。  状況〈 C ; D 〉に於ける『 □p 』の解釈には、透過状況 C を含む C' のみを使って解釈し、不透過状況 D は使わな い。ここがこの解釈の特徴である。必然性の判断をする際に、 透過状況は遮蔽されずに様相記号を透過していき、不透過状 況は遮蔽される。則ち、文例(1)を解釈する時には、「昨 日までの状況」が透過状況であり、「今日は雨」が不透過状 況であった。  この解釈では、次の定理が成り立つ。 [定理1]部分可能解釈は、命題論理の断片に於いては、      S5様相に対し健全かつ完全である。  則ち、S5論理で証明可能な、量化記号を含まない論理式 は、全てこの解釈によって恒真となる。この証明では本質的 に、S5命題論理では、任意の論理式が、古典論理の論理式 を一回だけ『□』か『〜□〜』によって様相化したものの連 言・選言による結合と同値になる、ということを使っている。 様相記号が二重にならないような論理式に還元できるという ことは、S5論理では様相自体は様相の対象とはならないこ との反映であろう。後に触れるように、部分状況解釈では、 様相とは認識の様態としてある。認識自体は認識の対象とは されないので、部分状況解釈はS5命題論理とよく整合する のだろう。  しかし、量化記号を含んだ論理式に関しては、S5様相に 対する健全性と完全性は証明されていない。その反例も得ら れてはいないけれども、おそらくは絶望的であろう。 ● 個体指示  述語論理に於ける部分状況解釈の問題は、可能世界の理論 に於いては貫世界同定と呼ばれるもの[註6]がこの解釈に はないことにある。「性質Pを必然的に持っているもの」と か、「性質Pを持つ可能性があるもの」などという範疇は、 この解釈では適切な意味を与えることが出来ない。  その一方でこの解釈では、次の定理が成り立つ。 [定理2]部分可能解釈は、『 (x)(…□(… x …)…) 』の      ように様相記号の内側の変数を外側から量化する      ことがない論理式に関しては、S5様相に対し健      全かつ完全である。  証明は定理1と同様に為される。  内側の変数を外から量化することこそが、解釈に貫世界同 定を必要とするのである。部分状況解釈とS5様相とが不整 合を起こしている場所は、そのまま、現代論理学が将に直面 している問題である。不整合の責めを部分状況解釈のみに負 わせるのは不当であろう。  S5様相がよく言われるのは、可能世界解釈に際し貫世界 同定が極めて観易くなっていることによる。それは単に個体 領域を共有するだけでよかった。それはクリプキの個体指示 の理論によく整合する。[註7]  クリプキによると、「アリストテレス」は個体を指示する 固有名であって、「ニコマコス倫理学の原著者」や「アレキ サンドロス大王の幼年期の教師」のような記述では置き換え 出来ない、とされている。「アリストテレス」がそのような 記述の束であるとするラッセルらの解釈では、 (4)「アリストテレスはアレキサンドロス大王の幼年期の     教師である。」 は論理的に恒真であり、必然か偶然かを問う意味が無くなっ てしまう、という問題がある。成る程、かの時代にマケドニ アの王子の教師をアリストテレスが務めたのは必然なのか、 偶然なのか、筆者は知らない。この点に於いては、個体指示 の方が優っている。しかしそれならば、形而上学と自然学と ニコマコス倫理学が全て後世の偽書であり、リュケイオン学 校の初代学頭がテオプラテトスだったならば、「アレストテ レス」なる個体は一体何なのか、という批判は受けなければ ならない。  部分状況解釈では、その様な問題は発生しない。文脈が透 過状況として(4)を用意しているならば、それは必然であ る。一方、歴史を語る文脈では通常は、「アリストテレスは スタギラに生まれ、ニコマコスの子であり、プラトンの学生 であった。」「アレクサンドロスはマケドニアの王子であっ た。」などが透過状況となり、(4)は不透過状況である。 だからこそ、彼が王子の教師に就職したのは必然か偶然かと いうことが議論になり得る。  このように、この解釈では、「アリストテレス」は固有名 であるけれども、個体指示でもないし、固定された記述の束 でもない。敢えて言うならば、文脈が与える状況によって定 められた、変わり得る記述の束と言うことになる。必然かど うかは、文脈がどのような透過状況を設定するかに依存する。 様相は形而上学的に存るのではなく、認識の態度として存る。 [註8]  では、部分状況解釈は個体指示を全く扱えないのだろうか。 少なくとも、我々の身体による直示は個体指示であろう。 [註9]しかし直示語ではこの解釈でも不整合は起きない。 直示語は量化されないから、定理2の要件には触れない。直 示された個体がかくかくの属性を持つことは必然かどうかを 問うことは問題ではない。「必然的にかくかくの属性を持つ 個体は全て」というように普遍された概念を語ることが問題 なのである。 ● 結論  本稿では様相の解釈として部分状況解釈を提案した。これ により、クリプキの可能世界解釈だけが唯一の様相の意味論 の候補である、ということは最早言えなくなった。クリプキ の可能世界解釈と、部分状況解釈と、どちらが様相の意味論 として適当であるかは、猶、議論を要する。議論の焦点とな るのは、個体指示と貫世界同定の問題であろう。直示語は個 体を指示し得るとして、言表様相と事象様相によってフレー ゲパズルを解いたとしても、身体では直示し得ない個体にま で事象様相と拡げ過ぎると、途端にクワインパズルに陥って しまう。[註10]  述語論理に於いて本質である筈の個体に関する問題は、解 かれていないものが多い。言及されることを待っているもの は、更にもっと多いのだろう。 註 [1]雨ならば常に成り立つ、というのは、文全体ではなく 含意命題だけのことである。この文は全体としては、含意命 題の外側に反実文であることを表す助詞「のに」が付いてい る。この助詞の解釈には立ち入らない。 [2]ヒューズ、クレスウェル著 三浦聰、大濱茂生、春藤 修二 訳「様相論理入門」恒星社厚生閣 1981 [3]暗黙の補語の量化に関しては、Kamp, Hans 著 『 Condition in DR theory 』, Hoepelman, Jakob Ph. 編 「 Replresentation and Reasonning 」Max Niemeyer Verlag 1988年 所収 66〜173頁 [4]数学では、「超準」等の言葉によって、極大無矛盾な 論理式の集合では弁別し得ない構造の差異を議論する。しか しここではそのような差異は些細であるとして立ち入らない。 [5]クリプキ著 八木沢敬、野家啓一 訳「名指しと必然 性−様相の形而上学と心身問題−」産業図書出版 1985年 50頁16行目 [6]クリプキは、個体領域は一つしかなく、貫世界同定も あり得ないと言っている。所で、各可能世界が唯一の個体領 域を共有する構造と、各世界にそれぞれの個体領域があって 一対一の貫世界同定がある構造とは、技術的には全く同値で ある。クリプキは、唯一の個体領域の共有こそが本質であり、 一対一の貫世界同定などは単なる技術上の方便に過ぎないと 言うだろう。しかし筆者は、可能世界がそもそも技術上の方 便であり得ると主張しているのである。だから本稿では、個 体領域の共有は貫世界同定の一形態であると見做す。クリプ キ「名指しと必然性」56頁5行目参照。 [7]前註参照。 [8]技術的な取り扱いが一見同様であると云う理由から、 時間や当為、願望等が「様相」と呼ばれることもあるが、こ れは単に用語の流用に過ぎない。一方でクワインは様相を語 る際に、同時に信念と知識の論理や引用の論理を語っている。 これは、様相の本来の語義である必然性・可能性等は、形而 上学的なものではなく知識と信念の所産である、という立場 に通ずるものがある。クワイン著 飯田隆 訳「論理的観点 から−論理と哲学をめぐる九章−」第八章『指示と様相』 1992年 参照。 [9]Kaplan, D. 『 Demonstratives 』、「 Themes from Kaplan 」所収 1988年 [10]クワインパズルについては、クワイン著「論理的観点 から」第八章『指示と様相』及び、野本和幸 著「現代の論 理的意味論−フレーゲからクリプキまで−」岩波書店 1988 年 参照。 謝辞  本稿を書くに当たり、飯田隆先生、金沢誠先生、清塚邦彦 氏から貴重なご指導、御助言を賜わりました。ここに厚く御 礼申し上げます。また、本研究の発表に際しお世話いただき ました鈴木信行先生に謹んで感謝いたします。