時間の論理  ■ 過去への言及 ■  東北大学の学長は現在、西澤潤一氏である。西澤氏は仙台第二中学校の出身である。因 って、次の言明が成立する。    「東北大学の学長は、仙台二中に通学していた。」  ところで勿論、東北大学が中学生を学長に選んだことは過去に一度もない。『東北大学 の学長』とは現在の記述であり、『仙台二中に通学していた』とは氏が中学生時代の記述 である。同様に    「宮城県知事は仙台二高に通学していた。」 というのは、現在の県知事浅野史郎氏が高校生時代に仙台第二高等学校の学生だったこと を言っているのであって、嘗て高校生が県知事になったことがあったといっているのでは ない。  ■ 論理学の形式化 ■  伝統的論理学では、「ギリシア人は人間である。」と「人間は生物である。」から「ギ リシア人は生物である。」を推論する。論理を形式化するには、『ギリシア人』という属 性、『人間』という属性、『生物』という属性を考える。そうして、『ギリシア人』であ ることは『人間』であることを含意し、『人間』であることは『生物』であることを含意 する、と捉える。式で書くならば    『ギリシア人』⊃『人間』⊃『生物』 ということになる。これは集合の包含関係と逆である。つまり集合ならば    (生物の集合)⊃(人間の集合)⊃(ギリシア人の集合) となる。  フレーゲに始まる現代論理学では、少し違った扱いをする。属性とは単項述語のことで あり、「ギリシア人は人間である。」「人間は生物である。」「ギリシア人は生物である。」 は論理式によってそれぞれ    ∀x.ギリシア人(x)⊃人間(x)    ∀x.人間(x)⊃生物(x)    ∀x.ギリシア人(x)⊃生物(x) と書く。一つ目と二つ目から論理的推論によって最後の論理式が証明される。[註:記号 論理学では『ギリシア人( )』『人間( )』『生物( )』が原子記号なのか複数の 記号を合成したものなのかは重要である。しかしそれは対象理論の問題であって、論理の 問題ではない。]  ■ 時間の導入 ■  では、先程の二中二高の言明を現代論理学に依って形式化するとどうなるだろうか。  『東北大学の学長』と『仙台二中に通学する』はそれが成立している時代が異なる。で あるから、単に人に対する述語ではなく、人と時間に対する二項述語であると捉えなけれ ばならない。そうすると、    ∀x.東北大学の学長(x,1994年)⊃仙台二中に通学(x,1940年) という論理式が書かれる。[註:ここでは『東北大学の学長』が確定記述であることに配慮し ていないが、今はそのことには触れないでおく。]  さて、これは正しい内容を言っている論理式ではあろうが、冒頭の言明に正確に対応し ている訳ではない。冒頭の言明では何年に在学していたかは言及していないのであって、 単に過去のある時点に於いて在学していたことしか主張していない。  過去を表す論理演算子を体系に導入することも可能だが、二項述語であるという発想に もう少し拘ってみよう。そうすると、過去を表す述語が必要になる。    ∀x.東北大学の学長(x,今)⊃∃t.t<今∧仙台二中に通学(x,t)  ここでは時間を表す『今』という項と、時間の前後関係を表す述語『<』を導入した。 『今』は発話の時間を意味する項であり、発話に依存してその意味が異なるという、特別 な性質を持った項である。過去を表す述語は『t<今』となる。  更に進んで、『学長』『通学』を学校に対する述語であるとする。そうすると冒頭の言 明は    ∀x.{∃y.東北大学(y;今)∧学長(x,y;今)}       ⊃∃t.t<今∧∃y.仙台二中(y;t)∧通学(x,y;t) のように書かれる。仙台二高に関する言明もまたこの方法で    ∀x.{∃y.宮城県(y;今)∧知事(x,y;今)}       ⊃∃t.t<今∧∃y.仙台二高(y;t)∧通学(x,y;t) と書かれる。これが第一の形式化である。  ここで注意しなければならないのは、西澤氏が通っていた仙台二中は旧制中学であり、 浅野氏が通っていた仙台二高は新制高校であり、名前は変わったけれども同一の学校であ る、という点である。上に於いて安易に『仙台二中』『仙台二高』を項とはせずに、時間 とも関わる述語としなければいけなかったのはこの為である。[註:もっと悪いことに、 新制の仙台第二中学校という学校もある。]  時間の論理を形式化する為に、フレーゲ以来の一階述語論理に次のような変形を加えた。  まず、項として個体を表す項と時間を表す項を分けて、各述語に時間を表す項だけが代 入されるような部位を設定した。この代入される部位の数は、先の例ではどの述語にも一 つずつであるが、複数あっても構わないし、特別な場合には一つも無いかも知れない。そ して、発話の時間を表す特別な項『今』と、時間の過去・未来を表す述語『<』を導入し た。  一見して時間の取り扱いはこの形式化で十分なようである。が、この後、更に検討を加 えていきたい。  ■ 様相論理 ■  論理学では可能世界という概念がある。これは様相論理の模型としてよく用いられてい る。静的な可能世界の模型は、時間の模型としても有効である。可能世界の間の到達可能 関係が、時間の前後関係とよく対応しているからである。記号論理学に於いて模型につい てのみ論じている場合には、時間と様相の区別をしないことが屡ゝある。ここではそれを 倣ねて、静的可能世界模型に就いて議論されてきたことを時間に当て嵌めてみよう。  よく言われる時間に対する静的可能世界模型とは、ある時刻tに於ける世界の状況にあ る可能世界させる。時刻tに世界wが対応し、時刻t’に世界w’が対応している場合、 tよりもt’の方が未来であるということは、wから見てw’が到達可能である、という ことに対応する。[註:到達可能はまた観測可能とも呼ばれる。過去から未来へ到達可能 であるというのは異和感はないが、過去から未来が観測可能であるというのは奇異に聞こ える。しかし、過去・未来は時間の言葉であり、到達可能・観測可能は可能世界の言葉で あるので、日常の語感は問題ではない。]  ■ 個体を共有する模型 ■  可能世界模型にも種々の立場がある。  ある立場の可能世界模型に於いては、各世界で成立する状況は様々であるが、個体領域 は共有している。但し、ある個体が個体領域の中にあるからといって、その個体が全ての 世界に出現しているとは限らない。ある個体はある世界には出現しないかも知れない。  先程の時間の把握によれば、嘗て「仙台二中」と呼ばれた学校と今「仙台二高」である 学校は同一の個体であり、それは1940年も今も存在している。しかし1890年にはまだ創立 されていなかった。このように、個体は時間とは別に存在する。ある個体は時間とは関係 なく常に出現しているが、しかしある個体はある限られた時間のみ世界に出現する。この 意味で、先程の時間把握は個体を共有する可能世界模型であると言える。  ■ クリプキ枠 ■  個体を共有する可能世界模型の中で一番有名なものは、原始的なクリプキ枠の模型であ る。  原始的なクリプキ枠は、到達可能の関係が推移的であること、及び、到達可能な世界で は出現する個体は増えていること、この二点を特徴の持っている。  推移的とは、世界wから世界w’が到達可能であり、w’からは世界w”が到達可能な らば、wからもw”が到達可能であるということである。「出現する個体が増える」とい うのは、個体xが世界wに出現し、世界w’がwから到達可能であれば、xはw’にも出 現する、という意味である。  このクリプキ枠を時間の模型とすることは興味深い。到達可能の関係が推移的であるこ とは、過去・未来の関係が推移的であることと整合する。一般にクリプキ枠では到達可能 の道筋は分岐しているが、これは時間に於いては「未来には複数の可能性がある」という ことに対応する。個体が増えるということは、一旦出現した個体は未来永劫、消え去るこ とはない、ということである。[註:この考えは中世の「死者が世界を埋め尽くす」とい う発想に通ずるように思われる。物理的空間を占有しなくとも、人は屡ゝ、過去のものに 心を占められてしまうものである。]  ■ 個体を独自に持つ模型 ■  可能世界模型の、また別の考え方は、異なる可能世界は個体を共有せず、それぞれ独自 の個体領域を持つ、というものである。  個体を共有することと個別に持つことの違いを例によって説明しよう。  二つの可能世界では、違った状況が成立する。ある可能世界WではX氏はY職にいる。 一方、別の可能世界W’ではX氏はY職に就いていない。さて、Y職のX氏とY職でない X氏とは同一人物なのだろうか。  個体を共有する模型では当然に同一人物である。個別に持つ模型では、同一人物である かどうかは判らないが、少なくとも同一個体ではない。  ■ 貫世界同定 ■  個別に持つ模型では、様相論理の形式的取り扱いに大きな注意を要する。先の例に於い て、X氏を表す個体項をXを書き、Y職である、という述語をYと書こう。また、ある可 能世界で成立する、という様相を◇と書こう。  WからW’が到達可能であるとすると、Wでは    Y(X)∧◇¬Y(X) が成立する。さて、それでは    ∃x.Y(x)∧◇¬Y(x) が成立するかというと、問題が生ずる。一つは、Wに於けるXとW’に於けるXは異なっ た個体なのであるから、同じ変数で量化してもいいのか、ということであり、二つ目は、 W’に於いて¬Y(X)となっているXはWには存在しないのであるから、それをWに於 いて特称量化していいのか、ということである。  この為、個体を独自に持つ模型では、貫世界同定というものが考えられている。  世界WのX氏と世界W’のX氏とは、個体としては異なっているが、人としては同一人 物である、ということが考えられる。このように、世界を隔てた二つの個体の間に、紐で 結ぶように「同じ」という関係を張り巡らす。もしある世界から他の世界の個体を見た場 合に、それが今自分がいる世界のある個体とその紐で結ばれていれば、それを同じものと 見做そうというものである。世界Wから世界W’を見て、世界W’のX氏を見た場合には それを世界WのX氏だと思うのである。  もしこの貫世界同定が常に一対一の対応であるならば、それは個体領域を共有している 模型と変わりはない。模型として異なっているだけであって、表現している内容は同一で ある。  貫世界同定がその特徴を見せるのは、それが多対一あるいは多対多の対応であった場合 である。  世界Wに異なる二ヶの個体XとYがあって、それは貫世界同定によって世界W’の同一 の個体Zと同定されていたとする。  WからW’を見た場合には    X≠Y∧◇X=Y となる。一方、W’からWを見た場合には    X=Y∧◇X≠Y が成立する。もしここで『X=Y』なのだからと言って連言の右側の『◇X≠Y』のYに Xを代入するとどうなるだろうか。それは『◇X≠X』となってしまう。しかし、どこの 世界でも同一律は崩れないのであって、この言明は成立しない。則ち、この模型では代入 則が制限されているのであり、様相化されていない等式は様相化された部位に対して代入 則を適用させられないのである。  ■ クリプキ層 ■  代入則の制限という話になった所で、代入則を制限しない非常に有用な模型であるクリ プキ層に触れよう。  クリプキ層は貫世界同定に対して、世界wから世界w’が到達可能ならば、wの全ての 個体は唯一個のw’の個体と同定される、という制限を加えたものである。  w’の個体の一ヶがwの個体の何ヶと同定されようと構わない。先程の例では、W’の 個体ZがWの二ヶの個体XとYに同定されていた為に問題が起こったが、W’からWが到 達不可能であれば、W’からはWの個体XとYに言及できないのであるから問題は起こら ないのである。  ■ 継続関係 ■  さて、世界ごとに個体領域を持つ模型を時間の論理に適用してみよう。この場合、旧制 の仙台第二中学と新制の仙台第二高校は同じ学校であり、中学生の西澤氏と学長の西澤氏 もまた同一人物である。各時刻ごとに個別の個体領域を持つならば、何らかの貫世界同定 に相当する、貫時間同定とでも言い得るものが必要である。ここでは仮に継続の関係と呼 ぶ。  冒頭の仙台第二中学の言明を、このような模型によって形式化しよう。    ∀x.{∃y.今(x)∧今(y)∧東北大学(y)∧学長(x,y)}       ⊃∃x’.x’→x∧            ∃y.二中(y)∧通学(x’,y)  これが第二の形式化である。ここでは時間は個体の中に含まれているので、時間の項が 表面上は出現していない。その代わりに、その個体が今の時刻の個体であることを表現す る述語『今()』が導入された。また『x’→x』は継続関係を表現する。これはつまり、 xはx’そのものであるか、x’の後の姿である、という意味である。  また、ここには現れていないが、二つの個体の属する時刻の過去・未来関係を表現する 『≦』という述語も必要である。論理規則には『→』が部分順序であること、『≦』が 『→』よりも強い準順序であること、などを加えなければならない。  このような模型では、素朴に個体と考えられてきたものは、一瞬ごとの個体が数珠のよ うに並んだものと見做される。  ■ 融合と分解の論理 ■  では何故、時刻ごとに個体を考えなければいけないのか。可能世界模型の場合には、貫 世界同定が一対一ならばそれは個体領域を共有していることと同等であった。時間の論理 の場合も、継続の関係が一対一ならば、敢えて時刻ごとの個体などというものを考える必 要はない。  個体の原語は「分割せられざるもの」という意味である。伝統的な論理学では、人や船 など、安定して分割し得ないようなもののみを個体として考えてきた。そのようなものに 関しては、継続の関係が一対一でないというのは想像しがたい。記号論理学に於いても、 意味論として伝統的な個体だけを考えるならば、第一の取り扱いで十分である。  しかし現代は、伝統的な意味論では不十分になってきた。それは単純に社会の要請に因 る。現代社会に於いては個人のみならず、学校、企業、政府といった物もまた社会の主体 となって機能している。そしてそのような物には屡ゝ、合併や分割がある。その時には一 対一ではない継続関係によって事象を把握する必要がある。  最近は企業の合併がよく聞かれる。合併に際しては企業の債権債務は当然に新会社に引 き継がれる。嘗て、国鉄が解体して清算事業団と幾つかの鉄道会社が出来たが、その際に 国鉄時代の雇用関係が後身の鉄道会社に引き継がれるかどうかが労働争議になった。この ように、融合・分離といった事象の前後では、それらが同じ「もの」であるのか、それと も違う「もの」なのかを判断しなければならない。  その為に、個体は単に「もの」を表現するのではなく、ある時刻の「もの」の存在を表 現するものとして捉え、同じ「もの」に対して各時刻ごとに別個の個体を用意することが 必要になる。  例えば、Xが分割してYとZが出来た、と言うには、    X→Y ∧ X→Z ∧ ¬Y→Z ∧ ¬Z→Y と書かれる。このような場合に第二の形式化は有用なのである。  ■ 情報と通信の論理 ■  更にもっと直接な需要がある。  情報通信の発達によって、動的な時間の論理学が強く求められている。通信を制禦する 論理では、情報を扱う。情報は互いに他の情報と作用し合い、変化し、また通信によって 無限に複製され得る。このような分野に適用するには伝統的意味論を超えた動的な意味論 が必要である。  情報と通信の為の論理に於いては、伝統的な観念は更に破壊されている。中継点を介し た発信点と受信点の間では直接に互いの時計を比べることは出来ない。その場合、発信点 にある「もの」の時間と受信点にある「もの」の時間が同時であるかどうかには意味が無 くなっている。時間が各地点で共有されていないので、世界や個体領域が時間によって分 けられることもない。  先程の意味論では、個体とはある時刻に於ける「もの」の存在であった。しかしここで は個体とは、ある「もの」がある状態にあること、ということになる。伝統的な個体の観 念とは大きく離れてしまっている。  ■ 時代と時間 ■  古代には時間がゆっくりと流れていた。ものが軽々しく変化することはなかった。現代 は高速化社会を経て情報化社会へと移り、伝統的論理を超えた時間の論理が求められてき た。将来も時代の進化につれて、また新たな論理が作られていくのだろう。  [註:ここでは第一の形式化、第二の形式化とも、フレーゲ以来の述語論理に則した形 式化を示したが、述語論理とは全く異なった形式化も研究されている。] 《文献》 ヒューズ、クレスエル著 三浦聡、大浜茂生、春藤修二訳「様相論理入門」    恒星社厚生閣 1971 Kaplan, D. `Demonstratives' in Themes from Kaplan, 1988 野本和幸「現代の論理的意味論」1988 富樫敦「並行プロセスの計算モデル」日本ソフトウェア科学会チュートリアル 1992