以下の記述が正しいことを保証しません。この記事を利用したことによる責任は負いかねます。
注:僕がカテーテルアブレーション(カテーテル焼灼術)を受けたのは 1997 年のことでして、かなり昔のことになっています。従って、以下の記事には古い情報が多々含まれていると思われますのでご了承ください。また、僕が相当なヘタレであることと、当時はまだこの手法があまりポピュラーでなかったことにより、必要以上に人を怖がらせるような記述がなされているかもしれませんのでご了承ください。実際に手術を受けるかどうかの判断は、主治医の先生とよく相談して決めてください。
そもそも心臓は、電気が周期的に流れることで動いている。カエルの足に電気を流すとピクピク動くが、あれと同じことだと思えばよい。電気が正しく流れている限りにおいては、心臓もヘンな動きをすることはないのだが、生まれつきこの電気が流れる電線が多い人がいる。この余計な電線をケント束と言うのだが、ここに何かの拍子で電気が流れ始めてしまうと、心臓がヘンな動きを始めてしまう。具体的には心臓が一分間に 180~200 回くらいのペースで打ち始める。これが WPW 症候群である。
頻脈が起こっている間は、心臓が十分に血液を全身に送れないので、気持ち悪いし息苦しいし頭がボーっとするしでえらいことになる。悪いことには、発作がどのタイミングで起こるかは本人にも予測できない。普通に本を読んでいるときにも発作が起こったりするのである。また、発作がおさまったとしても、その日はすごく疲れてしまって何も手に付かなかったりする。直接死に結びつく病気ではないらしいのだが、とにかく日々の生活を送るのに不便なのである。
薬である程度は発作がおこらないようにできるのだが、飲み忘れたりすると大変だし*1薬代も馬鹿にならない。それならば原因から断ち切ってしまえというのがカテーテルアブレーションという治療法なのである。
心臓内にある余計な電線(ケント束)がこの病気の原因であることは書いた。カテーテルアブレーション法では、心臓の中に電極の付いた細い管(カテーテル)を入れてケント束を探し出し高周波で焼ききってしまうのである。僕の場合は右太ももの付け根の動脈から数本、左の鎖骨の下の血管から数本のカテーテルを入れて手術した。心臓に管を直接入れるというのは、話だけ聞くとグロく聞こえるが、胸をメスで切って手術するのに比べたら負担は比べ物にならないくらい軽い。次回は私が 1996 年に東京女子医大で受けたこの治療の模様を思い出しながら書いてみようと思う。
手術を受けたいと決意したのは 1996 年だったと思う。当時僕は高校二年生で、かなり頻繁に発作を起こしていた。このままだと大学受験に大変だなと思って、当時の主治医の先生*2に手術を受けたいと話したのである。先生はちょっと面食らったような顔をしたが、手術を受けるなら東京女子医大*3が良いだろうということで、紹介状を書いてくれた。
しばらくして問診を受けに東京女子医大に行った。陰鬱な感じの医者である。心電図を見て WPW 症候群だということを確認したあと、手術の説明をしてくれた。何か聞きたいことは無いかと言われたので「手術は痛いですか?」と聞いたら、鼻で笑われた。以降、大学病院の医者にはあまりいいイメージがない。*4予約を入れておいて、空きができたら連絡するということだったので、宮崎に戻った。
夏が過ぎ、秋が過ぎ、冬が過ぎた。連絡は一向に来ない。「手術はまだかねえ」「まだかねえ」と学研のおばちゃんを待つ小学生のような会話が幾度となく食卓で繰り返された。僕は相変わらず発作を頻繁に起こしていた。
やがて高校三年生になった。三年生になったばかりのある日に春休みの課題テストを受けていると、担任の先生に帰る準備をしろと言われた。ようやく女子医大から連絡が来たらしい。母と一緒に東京に飛んだ。
曙橋駅から東京女子医大に向かった。当時は確かフジテレビがお台場に引っ越したばかりのころで、フジテレビ通りが廃墟のようだったと思う。医大に着くと入院手続きを経て病棟に移された。二人部屋で、部屋全体が古びており、刑務所の雑居房を連想させるような部屋だった。
K というお医者さんがついてくれることになった。女子医大なのに女性ではなかった。若い人だったのでインターンだか研修医だかそういう人なんだろうなと思った。
検査ということで、早速血を抜かれた。静脈血と動脈血。悪いことに、この K というお医者さんは採血がひどく苦手らしかった。静脈血をとるのに3回針をさされてしまった。この分だと動脈血をとった後はヤク中の腕みたいになるだろうとビクビクしていたら、動脈血は別の人がとってくれて一発で終わった。
この後が大変だった。検査の連続であちこちまわされた。例によって負荷心電図もとらされた。負荷心電図というのは、安静時と運動時の心電図をとってみようというもので、電極をつけたままルームランナーで走らされるのである。もう小さい頃から何度もやっている検査だったのでそれ自体は何も目新しくなかったのだが、隣で検査を受けていたお爺さんが目新しかった。医者が「きつくなってきたら無理しないで止めてくださいねー」と言っているのに「若い者にはまだまだ負けん!」と漫画みたいなセリフを吐いて息を切らしながら走っているのである。医者も「いやいや、これは体力測定じゃなくて検査なんだから無理しないでください」となだめるのに必死の様子だった。僕の方はこのときにちょっと発作が起こって、WPW 症候群に特徴的な波形が取れたらしい。
このほかにもベクトル心電図という数学だか医学だかはっきりしやがれというような心電図や超音波検査というコウモリだかイルカだかはっきりしやがれという検査を受けた。ちなみにここの超音波検査は血流によって色がつくようになっており、心臓が花火のように美しく映し出された。
これだけ検査であちこちたらいまわしにされると、自分が人間ではなくモノのような気がしてくる。お医者さんは人体をモノと見なくてはならないというのは理性では分かるのだが、やはり感情の部分ではちょっと耐え難い感覚だ。僕のように手術のために短期入院するのであればまだ良いが、長期入院な人だとますますもって耐え難いかもしれない。
そんなこんなで3日くらい検査を受けていたのだが、4日目になって熱を出してしまった。やはり緊張していたのか。熱が出ていると手術が出来ないらしいので、しばらく熱を下げることに専心することになった。
感染症の検査と称して K 医師が毎日血を採りにくる。相変わらずヘタである。
二日経って熱が下がり、いよいよ手術ということになった。手術の前の日に教授回診なるものがあったらしく、教授と称する白髪の男性を先頭に多くの人間がぞろぞろぞろぞろと行列を作ってやってきた。まさしく白い巨塔である。
教授と称する男性は僕に何事か尋ね、僕が答えるたびに K 医師を叱り付けるのであった。僕はなんだか K 医師に申し訳ないような気がした。これ以降、大学病院の教授というものにも良いイメージは無い。
昼頃に看護婦さんが来て、おへその下から膝の上までの毛を全部剃れと言う。思春期まっさかりの高校生に陰毛をそれと言いますか。
手術前夜にインフォームドコンセントのインフォームドの部分が行われた。小部屋に母と二人で呼ばれて医師二人から説明を受けるのである。まず WPW 症候群はどういう病気で、なぜカテーテルアブレーションが有効なのかという話をされた。この部分は以前に主治医の先生から説明されたことがあって知っていることだった。(3/16の記事参照のこと)
次に具体的に手術がどう行われるかという話になった。左の鎖骨の下の動脈から二本、右大腿部の動脈から三本カテーテルを入れて、心臓までニョロニョロと押し込み、Kent 束を探して電磁波で焼き切るということであった。実際に挿入するカテーテルも見せてもらった。意外と太い。焼き切るときには胸の部分が少し熱くなるかもしれないということも言われた。
最後にどういう危険が起こりうるかという話と、女子医大での成功率について説明された。まず、カテーテルを心臓まで押し込む途中で動脈を傷つける可能性がある。次に心臓内で電磁波を発生させるときに壁をズボっと突き抜けてしまう可能性がある。血栓ができるかもしれない。これらの場合にはすぐに全身麻酔をして胸にメスを入れてペースメーカーを取り付けることになる。恐ろしい話を淡々と話す医者を見て、本当は手術を受けるべきではなかったんではないかという気がしてきた。今まで 300 回この手術をやって、3回トラブルが起こったということだった。(注: 1997年時点での話)冷静に考えれば 1% なんてそんなに大きな可能性ではないのだが、検査の連続でいい加減疲れているところに手術前夜で緊張しているので悪い面ばかりが見えてしまう。親子そろってなんか沈んでしまった。
とはいえ、ここで手術止めますと言ってしまうと、何のために東京に出てきたのかということになってしまう。*5まさに清水の舞台から飛び降りるつもりで承諾書にサインをした。
何か聞きたいことはありますかといわれたので「手術中にくしゃみをしたくなったらどうしたらいいでしょうか」と聞いたら鼻で笑われてしまった。どうも僕は鼻で笑われるような質問をすることが多いようだ。
手術当日。朝食にパンが出るが、食欲が出ず食べられない。後にも先にも緊張で物が食えなかったのはこのときだけである。
点滴を入れられて T 字帯を巻いて歩いて手術室(というか心臓カテーテル室)に入る。台の上に上がるとベルトで体を固定される。顔に覆いを掛けられて視界を遮られる。何かアメリカの死刑囚にでもなった気分である。
実はこの後のことはボンヤリとしか覚えていない。後で聞いたところによると、あまりに僕が緊張しているので、点滴の中に精神安定剤を入れていたらしい。思い出せる範囲で手術の様子を書いてみたいと思う。
カテーテルを入れるところが消毒された。誰かが「麻酔しまーす」と言っている。あー、そういえば麻酔は痛いって言ってたなあ。でも、ちょっとヒンヤリするだけで全然痛くないなあ。「カテーテル入れまーす」と誰かが言っている。あー、いよいよか。左肩と右腿の付け根がグリグリとされるようなちょっと妙な感覚がする。でも全然痛くはないなあ。
スピーカーから誰かの声が聞こえる。多分別室で心電図か何かを見ながら指示を出す人がいるんだろう。「どうですかー?」とカテーテルを持っている人が尋ねる。「うーん、だめ」とスピーカーから声が聞こえる。1時間ほどこのやり取りが続いただろうか、「カテーテル抜きまーす」の声とともに肩と腿の付け根に再びグリグリとした感覚。誰かがカテーテルを抜いたところを押さえている。止血しているらしい。
医者らしき人が僕に説明する
Kent 束が見つからなかったので、いったん手術を中止しました。・・・ナ、ナンダッテー!こんなに緊張してうまくいかんかったんかい!
移動式ベッドで病室に戻った後、親と一緒に説明を聞いた。Kent束が見つからず、焼ききるべき場所が見つからなかったので、手術を止めたとのこと。本当に WPW 症候群だったのかと尋ねたら「宮崎の病院から貰った心電図を見ても、負荷心電図の結果を見ても間違いない」と言われた。不思議だ。
動脈に穴を開けたわけなので、12時間は安静にしていなくてはならないらしい。「おしっこしたくなったらこれにしてください」と尿瓶を渡されたが、どうしてもベッドの上では排尿できず、我慢することにした。
12 時間経って膀胱が破裂寸前になって、尿瓶を使おうかどうしようかと迷っていると K 医師がやってきて傷口を見た。ベッドを降りていいよという許可を貰って、急いでトイレに行った。こんなにも尿が体内にたまっていたかというくらいに出るわ出るわ大盤振る舞いである。膀胱 is empty な僕はすっきりして、そのまま眠りに落ちた。
翌日は休日だったので、検査もなく暇であった。あまりに暇そうに見えたのか、看護士さんの一人が「これ面白いよ」といって VOW を薦めてくれた。それまで読んだことが無かったのだが、ベッドのなかで布団をかぶって爆笑してしまった。このとき、僕は確実に一段階バカになったと思う。
その次の日、WPW症候群がどうなったかの検査をやることになった。先っぽに電極のついたプラスチックの管を渡されて「これ、飲み込んどいて」と言われる。いや、飲み込めって言われてもね。「うどんだと思えばいいから」いや、うどんじゃないしね。15分ほど悪戦苦闘したが、どうしても飲み込めない。検査器具の準備が整ったがまだ飲み込めてないのを見て、医者が電極の周りにキシロカインを塗り、僕の鼻の中に入れ始めた。おげえおげえと悲鳴を上げたが、押さえつけられて無理やり管を入れられてしまった。何かを失ったような気分。
どういう検査かというと、食道から心臓を直接電気で刺激して、発作を強制的に起こしてやろうという検査らしい。Allegro Moderato で8拍の電気刺激を繰り返し繰り返し与えられる。心臓を直接電気刺激される人間もあまりいないだろうなあと考えつつ、気持ち悪いとしか表現しようのない電気刺激に耐え続けた。一時間後、管が抜かれた。再びおげえおげえと悲鳴を上げた。
検査の結果、WPW症候群がどこへともなく消滅してしまったらしい。「初めてのケースなんです」と医者が言う。どうやら僕は極限までひねくれているようだ。どうもすっきりしなかったものの、次の日に退院して宮崎に帰った。
なんかすっきりしない形だが、とりあえず手術は終わった。その後、僕を10年間にわたって苦しめたあの発作は全く起こっていない。僕はなんとか大学受験を乗り切り、大学を卒業し、修士課程を修了し、今年博士課程の一年生である。なぜ発作が出なくなったかは全くもって分からないが、少なくとも発作が出なくなったことで僕の生活は劇的に便利になった。手術前は、少しでも遅くまで起きていようものなら次の日には必ず発作を起こしていたのだが、今や徹夜で論文を書いても大丈夫である。また、この病気のために運動制限がついていたのだが、今や多少激しい運動をしても大丈夫である。*6
とはいえ、WPW症候群を持っているならカテーテルアブレーションを受けなさいとは僕には言えない。心臓の手術である以上リスクは必ず存在するからだ。ただ、もし発作があまりに頻繁に起こって生活に不便だと言うのであれば、根治するための選択肢には十分なりえると思う。僕が手術を受けたのは 1997 年のことで、それから 8 年も経っているわけで、実施例もかなり増えているだろうし。昔と違って、患者が自分の治療に責任を持って医者とコミュニケーションをとらなくちゃいけないという時代に来ているわけだし。
最後に、心臓の病気を持っていると、普通よりもいろいろな人に世話になることが多い。親はもちろん、病院の先生も、学校の先生も、発作を起こすたびに日本史のプリントを書いてくれた友人も、道端で発作を起こしてしゃがんでいたときに心配してくれたどこかのおばさんも、僕がなんとか病気を持ちながらもヘラヘラ過ごしてこれたのは、いろんな人たちのおかげであると思っている。心から感謝。